※ラストの展開に触れている箇所があります
優等生でもなくダークでもなくちょっとやさぐれてるけど、ある意味でスーパーマンより精神的に大人なスーパーガール像。トラウマを抱えているという点で似ているカーラとルーシーが旅をし成長する。ルーシーはカーラに助けられることで、カーラはルーシーを助けることで。しかし精神的な成長の描き方は劇的じゃないし「復讐では何も解決しない」という点も消化不良に感じた。
本作のヴィランは男だけしか生まれないので他種族の女性を誘拐して回っているという種族で、カーラとルーシーという女性コンビ(最終幕では救出した”花嫁たち”と共闘する場面も)で、あきらかに女たちVS男たちという構図なのだが、あからさまなフェミニズム的要素はほとんどない。長距離バスの中や酒場で常に舐めた態度をとられるところとか、「その年齢ならスーパーガールじゃなくて…(スーパーウーマンじゃない?)」というセリフがあるくらい。しかも、ジェイソン・モモア演じるロボがカーラたちを助けることでこの構図もぼやけさせている。
原作は未読なのだが、難解な部分も多いらしいが、内省的だったり哲学的な内容を大作スーパーヒーロー映画でやるのが難しいのはわかるし、女性が日常的に受けているマイクロ・アグレッションを描くのは、『キャプテン・マーベル』の二番煎じになってしまうという判断だったのかもしれない。フェミニズムを取り巻く状況は複雑に進化していて、いまさら「ガールズ・パワー!」とか「シスターフッド!」とかやられても困るし。
しかし、フェミニズム的な要素や内省的で哲学的な要素を削り取った結果、無難で尖ったところのない映画になってしまったのではないかと思えてならない。
『トゥルー・グリット』へのオマージュ
たしかに酒を飲んでばかりのカーラはコグバーンそっくりで、『勇気ある追跡』『トゥルー・グリット』なんだけど、『トゥルー・グリット』の主人公(『スーパーガール』のルーシーにあたる)は少女ながらに気が強く頭の回転も速くて、口だけで大人たちをやり込め、説得してしまうのに対してルーシーはほとんどキャラクターが描きこまれていない。そもそも主人公と脇役が反転してしまっている。『トゥルー・グリット』のマティは父親の仇を自らの手で殺した後、毒蛇にかまれて生死の境をさまよい、最終的に片腕を失うことになる。マティは復讐の代償を支払うことになるのだが、ルーシーはカーラに説得されて復讐を思いとどまり、代わりにカーラが仇を殺してしまう。復讐者が復讐の相手を殺すのはあたりまえの展開だし、あえて『トゥルー・グリット』の展開を裏切ったということなのかもしれないが、カタルシスはなくなってしまった。
鬱と戦う
最終幕の舞台となる惑星は緑の太陽と黄色の太陽が交互に昇る星で、緑の太陽に照らされるとクリプト人であるカーラは瀕死の状態になってしまう。普通、主人公が精神的・肉体的なピンチになると、誰かの助けあるいは自分の力でそれを乗り越えることがドラマチックな効果やカタルシスを生み出すことになるのだけど、本作では緑の太陽による危機を脱するために誰かが行動することはない。ただ黄色の太陽が昇るのを待つしかない。これは本作のカタルシスのなさの要因の一つになっているのだが、このシーンが一番印象に残ったシーンでもある。
鬱やトラウマから回復するためには、自由意志ではどうにもならない、ただ寝ていることしかできない期間もある。その象徴のようなシーンがいちばん印象に残った。
スーパーガールは長編映画やドラマシリーズとしてなんども映像化されているが、DCU版のスーパーガールがキュートに愛想をふりまくだけのかわいいキャラじゃなかったのは歓迎したい。ひたすらローテンションな彼女が今後のDCUでどういう位置を占めるのか気になる。
参考:
ローリング・ストーン誌のレビュー
原作との結末の違いについて

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