ドッペルゲンガーとすれ違う愛/『もっと遠くへ行こう。』感想と考察【ネタバレあり】

映画

イアン・リードの同名小説の映画化で、脚本に原作者も参加している。

原作もおもしろかったけど、映像化された本作も楽しめた。

SF的ドッペルゲンガーものであり、すれちがう愛がテーマになってる。

原作を読んだ状態で観たせいかジュニア(もちろん最初に映画に登場するほうの)に感情移入し哀れに思った。テランスの説明を聞いてるときなどのシアーシャ・ローナンの表情の微妙な演技も堪能できた。

ジュニアA(ややこしいのでコピー元をジュニアA、コピーをジュニアBと呼ぶ)はヘンリエッタのことを束縛し抑圧していたらしい。彼女がピアノを弾くのを嫌い、かつては外の世界に出ていく夢があったのにまわりに誰もいない農場で2人きりで暮らすことを強制していた。

ジュニアBはジュニアの完璧なコピーではなかった。だがそのせいで、ヘンリエッタはジュニアBのなかにかつて恋していたジュニアの面影を見出し愛するようになる。

ヘンリエッタはジュニア(A)のもとから去ることを決意するが、ジュニアBは読者や観客と同じようにミスリーディングされ、ヘンリエッタはジュニアBを捨てていくのだと勘違いする。傷つくジュニアBの姿は哀れだけど、ジュニア(A)の束縛や抑圧のせいでジュニア(B)が苦しむことになるという、ある意味では自分自身の有害な男性性によって苦しめられる、自業自得であることも興味深い。コピーとはいえ別々の存在なのだから自業自得というのはおかしい(だからこそ憐れみを感じる)けれど、観念的というか寓意としては、コピーとコピー元は同一人物の別の側面だったり過去の彼自身や未来にありえたかもしれない可能性を表している。ジュニアBはジュニアの過去の姿であったり、有害な男性性を乗りこえた姿をあらたしているとも見えて、これが作品に哲学的なおもしろさを加えている。

ヘンリエッタAとジュニアB、ジュニアAとヘンリエッタB……ボタンの掛け違いのようにすれ違う愛の姿をSF的ギミックを使って描いている。一回だけでなく二回観ることでより味わいが深くなる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました