ウィリアム・S・バロウズの自伝的作品『クィア』をルカ・グァダニーノ監督が映画化した。ダニエル・クレイグが孤独で偏屈でジャンキーなゲイである主人公を熱演している。
映画全体の構成は原作の複雑な成立過程に影響されている。映画は印象的なセリフや主人公リーの細かい感情の動きも原作どおりに展開していくが、終盤になると原作にないヤヘ(イェージ)体験など幻想的なシーンが連続する。バロウズのことを知らず映画だけを観ると意味がわからなかったかもしれない。
原作『クィア』は1950年代に書かれながら出版されたのは1985年だった。そしてその序文でバロウズは『クィア』は妻ジョーンズの射殺を契機として書かれたものであり、またその事件がなければ作家にはなれなかっただろうと書いた(このような経緯や『クィア』に前後して書かれ出版された処女作である『ジャンキー』との関係など、河出文庫で復刊された『クィア』の訳者あとがきに詳しく書かれている)。
この序文や訳者あとがきを読むと、クローネンバーグ監督が『裸のランチ』でなにをやっているのかがすごくよくわかるようになる。クローネンバーグ監督はバロウズが書いた序文から『裸のランチ』映画化のヒントを得た。だから『裸のランチ』はウィリアム・テルごっこによる妻の射殺、インターゾーンへの逃亡を経て主人公が作家になるというストーリーになっていて、『クィア』の本文も一部取りこまれている。クローネンバーグ版『裸のランチ』は『クィア』の映画化でもあるのだ。ここらへんの事情は1992年に出版された鮎川信夫訳『裸のランチ』の解説でもちらっと触れられているのだが、当時はまったく理解できていなかった。
グァダニーノ監督は、原作では書かれなかったが後年に体験することになるイェージ(ヤヘ)の幻覚、ムカデのネックレスやウィリアム・テルごっこなどを描くことで映画版『クィア』をクローネンバーグ版『裸のランチ』へと接続させている。『クィア』は『裸のランチ』の前日譚のように見えてくる。
映画版『クィア』のラストに登場する老人は1985年に『クィア』の序文を書く老いたバロウズ自身だろう。グァダニーノ監督の『クィア』は原作の出版過程やバロウズの実人生などもまるごと映画化しながら、アラートンへの恋情を振り返る老バロウズからの視点によって、切なさだけが結晶するような余韻を残す。
クローネンバーグによる『裸のランチ』も、グァダニーノ監督による『クィア』も映画監督としての作家性を全開にした傑作になっているのは幸運なことだ。バロウズの実人生とこの2つの映画はわかちがたく結びついている。
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