『ジョン・ウィック』と『イコライザー』の違い、あるいは罪の贖いとしてのバイオレンス

映画

ある種のアクション映画では登場人物たち(ほとんどは男たち)が銃で撃ちあい殴りあい、血を流し死ぬ。映画はなぜこのようなことを繰り返し描き、またわれわれ観客はなぜよろこんでそれを観に行くのだろうか。

最近の例では『ジョン・ウィック』シリーズがそういうタイプの映画だ。キアヌ・リーブス演じる主人公のジョナサンは非現実的なくらい強い殺し屋で殺しまくると同時に、シリーズ全編を通してひたすら銃弾を受け殴られ刺され車にはねられる。そして最新作の『コンセクエンス』ではすべての報いとして死ぬことになる。

すべてのアクション映画が『ジョン・ウィック』のようであるわけではない。対照的なのはデンゼル・ワシントン主演の『イコライザー』シリーズだ。主人公のロバート・マッコールはジョン・ウィックと同じように最強の殺し屋だが、彼が殴られたり傷つくことはほとんどない。ほとんどスーパーマンのような強さで悪党を一方的に倒していく。最新作の『イコライザー THE FINAL』でもラストでは死んだりはせず自分の居場所を見つけハッピーエンドを迎える。トム・クルーズ主演の『ジャック・リーチャー』シリーズもほとんど同じタイプの主人公の映画だ。

映画でも小説でもあらゆるジャンルものの作品というのは、ある種のポルノだ。昔の007シリーズやいまでも作られている低予算のアクション映画では、圧倒的な力で敵をやっつけ、美女とセックスし、世界を救う主人公に自分を重ね合わせて快感を得る。しかし、『ジョン・ウィック』シリーズのようにひたすら痛めつけられ最後には死ぬようなタイプの映画はどういうポルノなんだろうか?

チャンドラー作品の主人公フィリップ・マーロウはよく警官や悪党にぼこぼこにされる。ダシール・ハメットの『血の収穫』がアイデアのもとになった黒澤監督の『用心棒』では、主人公三十郎はやくざの手下に捕まって足腰が立たないくらいぼこぼこにされる。ハードボイルド作品の主人公はなぜぼこぼこにされるのだろうか。男としてのタフさを描くためだろうか。もしそうなら、それは男であるがゆえの苦痛であるといえるだろうか。

同じアクション・バイオレンス映画でも、主人公が無双するのではなく主人公が精神的肉体的に苦しみ最後には悲劇的な結末を迎えるタイプの映画が存在してきた。これらの作品の源流の一つはアメリカン・ニューシネマにあるのだと思う。たとえば『イージー・ライダー』ではヒッピーの主人公たちは社会からの制裁としてラストで射殺されてしまう。『真夜中のカーボーイ』ではラッツォはバスの中で小便を漏らしながら死ぬ。『暴力脱獄』、『ワイルドバンチ』、どの作品も男たちは最後に殺されてしまう。チャンドラー原作の『ロング・グッドバイ』も作られている。

『ランボー』は1982年の映画で、とにかく主人公が銃をぶっぱなしたり爆破をしたりというイメージが強いが、実は主人公は精神的に問題を抱えたベトナム帰りの元軍人で、戦争体験と自分の中の暴力性のせいで社会に適合できずにいる。主人公は殺されはしないが、逮捕され連行されるという物悲しく映画は終わる。

主人公が無双するタイプのアクション映画を陽とすれば、主人公が苦しむ陰の映画も作られ続けてきた。

007シリーズは殺しのライセンスを持って世界をとびまわり、美女とセックスし悪者を殺し世界を救う、全能感あふれるタイプの映画シリーズだが、2006年に始まったダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドは自身の老いや過去のトラウマなどダークな面も描いており、2021年のシリーズ最終作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』ではついにボンドは死ぬことになる。

2016年の『ザ・コンサルタント』は大企業の陰謀に巻きこまれた主人公が大企業に雇われた殺し屋たちをばんばん殺していくアクション・スリラーだが、映画の主眼は自閉症でありながら生き抜く主人公のキャラクターと人生を描くことにあって、その証拠に企業の不正とか陰謀は脇に追いやられてしまう。

2018年の『ビューティフル・デイ』でホアキン・フェニックスが演じる主人公ジョーは常に希死念慮に悩まされ窒息寸前になるまで自分でビニール袋をかぶることを繰り返している。ジョーも他のアクション映画の主人公のように強いが、精神は常に不安定でなんとか、女性監督(リン・ラムジー)による作品であることも興味深い。

ところで、『ジュラシック・パーク』シリーズの作品では一貫して、恐竜は無垢な自然の象徴であり、人間たちはその自然を冒涜し破壊しようとする罪深い存在として描かれる。人間たちはその罰として恐竜に殺される。

『ジュラシック・ワールド/炎の王国』の傭兵ケン・ウィートリーは愚かにも銃によって恐竜=自然を征服できると思い上がり、その高慢の罪のために死ぬことになる。

映画で殺される人物には理由がある。理由がなく殺されれば観客の気持ちが離れてしまう。ハネケ監督の『ファニー・ゲーム』ではまったく罪のない主人公家族がいたぶられ殺されてしまい、殺人者たちが罰せられることもないが、そのせいで観客は居心地の悪さ、後味の悪さを感じることになる。この作品は悪人は罰せられるべきであるというハリウッド映画の論理に対するアンチテーゼとして作られた作品だ。

主人公が苦しむタイプのアクション映画では、内なる暴力の衝動、あるいは戦争や父親からの虐待的な教育によって強制される暴力、他人や自分自身を傷つけ痛めつけることになる暴力、バイオレンスこそが罪だ。その罪を贖うために主人公たちは血を流し苦しみ死ぬことになる。アクション映画における暴力という罪は男らしさの罪、男性性の罪といえないだろうか。

男たちが苦しみ死ぬ映画を観る観客たち、とくに男性の観客たちは、主人公が自分たちの身代わりとして罪を贖う姿を観てカタルシス(浄化)を感じるのではないだろうか(女性の観客にとっても男性の罪が罰せられるのは別のカタルシスがあるに違いない。それに、マッチョな全能感あふれる主人公よりも感情移入がしやすいかもしれない)。カタルシスとはアリストテレスが『詩学』で悲劇を論じたときに使った言葉だ。

アリストテレスはまた「悲劇に固有の快」があるとも書いている。われわれ観客は「悲劇に固有の快」を求めて『ジョン・ウィック』のようなバイオレンス映画を観に行くのだ。

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