『ザ・クリエイター/創造者』なぜストーリーに入りこめなかったのか考えてみた

映画

『GODZILLA』や『ローグ・ワン』のギャレス・エドワーズ監督作。

AI(シミュラント)が人間と共存しているニューアジアと、AIを駆逐しようとするアメリカ軍が対立している近未来が舞台。主人公のジョシュア(ジョン・デヴィッド・ワシントン)はアメリカ軍の特殊部隊としてAIレジスタンスに潜入するうちにマヤという人間の女性に恋をし夫婦になる。そこに軍が急襲し、爆撃でマヤを失ったジョシュアは帰国しAIを廃棄処理する仕事をしている。ある日、ジョシュアのもとへ将軍とハウエル大佐(アリソン・ジャネイ)がやってきて、マヤは生きていると告げられる。ジョシュアはマヤの救出と引き換えに、AIたちにニルマータ(ネパール語で創造者)によって作られた最終兵器の破壊のために再びニューアジアに潜入することになる。

まずはビジュアルはすばらしい。のどかな農村風景と兵器のコントラスト、巨大で不気味な兵器や建物。てっきりシモン・ストーレンハーグがデザインしたのかと思ったけど関わってないらしいのが信じられない。

ビジュアルは堪能した一方でストーリーには魅力を感じず入りこめなかった。

この映画にはいくつかのストーリーラインが存在している。

・ジョシュアが妻マヤを探し出し再開するラブストーリー。
・AIに対して偏見を持っていたジョシュアが変化し他者を理解するようになる物語。
・ジョシュアとアルファ-Oが父と娘になっていく親子の物語。
・AIと人類が戦争し、AIが勝利する革命の物語。

しかし上記のストーリーラインがどれも同じような強さで描かれているので、どれも中途半端な印象になってしまっている。

AIが人類に勝利する革命のストーリーライン

    まず、この映画の主人公はジョシュアだ。観客はジョシュアの視点を通じて物語を体験する。ジョシュアは元は反AIの工作員で、映画の終盤になるまでAIは魂などないただのプログラムだと考えている。マヤを愛したのはあくまでも彼女が人間だからだ。ジョシュアがAIの味方になり戦い始めるのは映画の最終盤なのだ。だから革命の物語というストーリーラインの印象が弱まるのは必然だ。マイノリティのレジスタンスが強大な「帝国」に打ち勝つ物語を描きたければ、最初からレジスタンス側のAIかマヤやアルファ-Oを主人公にしたほうがよかっただろう。

    偏見を捨て他者を理解するようになるストーリーライン

    偏見を捨て他者を理解するようになる物語についてはどうだろう。ジョシュアは最初、AIには魂がないただのプログラムだと考えているわけだけど、人間そっくりの外見で人間そっくりに振舞うAIたちを見て観客はそのように考えるだろうか。しかも、劇中でアメリカ軍はAIに協力している人間もおかまいなしに虐殺する。これはあきらかにベトナム戦争のイメージと重ねられていて、これをみてAI=悪と考える観客はいるのだろうか。つまり、観客は最初からAIに感情移入していて、ジョシュアは映画の終盤になってやっと観客に追いつくことになるのだ。

    たしかにAIがLAに核ミサイルを投下したということは冒頭に語られるものの、AIは人類に対する脅威とは描かれていない。観客をジョシュアと同調させるにはAIを『ターミネーター』のような存在として描くべきだった。そうできなかったのは、そうしてしまうとAIの革命の物語と矛盾してしまうからだ。革命の物語ではAI=レジスタンス=善、アメリカ軍=帝国=悪となる。偏見を克服する物語では最初はAI側をおそろしい人類の敵として描く必要がある。

    ジョシュアがAIに共感し彼女らのために戦うようになるいちばん大きなきっかけになるのは、アルファ-Oがマヤが身ごもっていた胎児をスキャンしたデータをもとに作られたと知らされたことだ。それまでにもいちおう変化のきっかけとなるエピソードはいくつか描かれている。「わたしたちは二人とも天国には行けないね」というアルファ-Oとの会話や、ジョシュアの親友であるドリューがAIの恋人を失って嘆いている姿など。しかしそのシーンは観客にとっては何十分も前のことだ。ゆえに映画の終盤でのジョシュアの変化は唐突に感じられ、偏見を捨て去る物語の感動も薄くなってしまう。

    父と娘の物語

    偏見の物語とも重なるが、ジョシュアとアルファ-Oが父と娘になっていく物語はどうだろうか。ジョシュアがアルファ-Oに出会った時点では彼女はマヤを探すための手掛かりでしかない。2人で逃亡しながら目的地を目指すロードムービーのようなシークエンスがあるのだが、ジョシュアはその時点ではAIには魂がないと考えているから、そこで2人の関係が深まることはない。ロードムービー部分ではコミカルな要素も入るのだが、ベトナム戦争のイメージがあるせいでそれもうまくいっていない。ジョシュアは囚われたアルファ-Oを救出し、最終的には彼女のために命を犠牲にするのだが、親子愛を深める描写がないためこれもとってつけたような印象になってしまっている。

    ジョシュアとマヤの再会の物語

    マヤこそはニルマータ、AIたちの創造者だったのだが、彼女の存在感は薄い。物語の終盤、やっと見つけ出したマヤは昏睡状態になっている。目覚めさせる方法はないと聞かされたジョシュアは、マヤの脳をスキャンしたあとに彼女の生命維持装置を停止させる。この時点でラブストーリーはアンハッピーエンディングに終わる。その後、アメリカ軍の攻撃衛星ノマド内で、マヤの姿をした義体にスキャンしたデータを読みこませ、ジョシュアとマヤは束の間だが再会を果たす。しかしそれはノマドが墜落し爆発するまでの数分間だけのことで、まるでデウス・エクス・マキナ(機械じかけの神)による都合のいい間に合わせのように感じられる。ノマド上にマヤの姿をした義体が大量にあるのは、アメリカ軍がニルマータであるマヤの姿を利用してAIレジスタンスを壊滅させようとしていたんだろうし、そのための伏線も張られているのだが、たった数分の再会のため、マヤを昏睡状態にさせておき復活させまた死なせる。そもそもジョシュアとマヤはなぜ死ななければならなかったのか。ジョシュアはアメリカ軍でレジスタンス弾圧をしていたことの贖罪だろうか。しかしAIたちにとっての創造者マヤが死ななければならない理由がわからない。なぜ2人とも生き残ってアルファ-Oと3人で新たな平和な時代を築いていくというエンディングではいけなかったのだろうか。AIたちが求めているのは平和であって人類の殲滅ではないはずだ。革命の物語としても必然性がない。ただなんとなくそのほうが感動するからだとしか思えないのだ。

    混乱する構図

    この映画でAIは他者の象徴だが、AIが人間と共存するニューアジアが舞台になるため、登場するAIはほとんどハルンを演じる渡辺謙をはじめアジア人の顔をしている。われわれアジア人の観客にとってはAI=他者=アジア人という構図には戸惑わずにはいられない。

    またアルファ-Oの頭にはΑΩ(アルファ・オメガ)という記号が書かれていて、ジョシュアはアルフィとあだ名をつけるのだが、”神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」”(ヨハネの黙示録1:8)とあるように、ΑΩとは全能の神を指す。一方で、ジョシュアをギリシャ語表記したものがJesusであり神の子イエスになる。父であるジョシュアが神の子で、娘であるアルファ-Oが父なる神ということになる。しかし単に親子関係が反転しているだけでストーリーに深みを与えているということはなさそうだ。

    どうすればよかったのか?

    ハリウッド映画の脚本開発の段階で、これらの問題点やマヤとジョシュアの生死についてなどが指摘されなかったはずがない。だとすると、監督か誰かが4つのストーリーラインのどれかをあきらめる、とくにベトナム戦争のイメージとジョシュアのストーリーのどちらかを諦めるということができなかったんだろう。

    マヤとジョシュアが生還するエンディングとか、もっとアルファ-Oの能力をいかした痛快な展開とか、マヤをカリスマ科学者として描いて人間とAIの関係について哲学的議論を展開させるとか……ビジュアルがいいだけに、こんな脚本だったらよかったのにとつい妄想してしまう。

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