有害な権力者である天才についてのファンタジー/『TAR/ター』感想

映画

冒頭の公開インタビューのシーンやジュリアード音楽院での授業のシーンを通して、ケイト・ブランシェット演じるリディア・ターの音楽的才能、頭の回転の速さ、カリスマ性が説得力をもって描かれる。そのおかげで、2時間30分、ターの全身から放射されるカリスマ性とエネルギーにスクリーンから目が離せなくなる。

権力を持った人間の腐敗と失墜を描くというストーリーなのに、意外にも幻想味が強い。天才と呼ばれる人たちもお茶を飲んだり家事をしたり、日常生活があるわけだけど、そんな天才の日常を覗き見ている感覚になるほどリアルでありながら、同時に幻想的でもある。日常に幽霊が忍びこみ、ポルターガイスト現象が起き、どこまでが現実でどこからが幻想なのだろうかと思えてくる。

ターは天才であるのは間違いないけど傲慢で、妻以外としかも同僚や部下と性的関係を持つのもなんとも思っていないらしい。まるでゼウスがみかけた美女をさらってレイプするように、自分には魅力的だと思った女性と自由にセックスする権利があるとでもいうようにふるまっている。

ターは人情よりも音楽性を優先する。慣習では楽団の第一チェロが演奏することになっている独奏を、ターはまだ楽団に正式に加入してもいないオルガにやらせようと画策する。それはオルガが若くて美しいからではなく(それもあるだろうけど)、オルガには音楽的才能があるからだ。独奏のためのオーディションで楽団の他のメンバーもオルガを選んだことからそれがわかる。しかし楽団のメンバーである第一チェロは明らかに傷ついている。

また、指揮者を目指しながらターのアシスタントをしているフランチェスカに対しても、副指揮者の座をちらつかせながら長年献身的に働かせてきたにもかかわらず、フランチェスカを個人的に依怙贔屓しているのではないかと噂されると副指揮者には別人を任命してしまう。

おそらく似たようなことはこれまでも繰り返され、いままで何人もの人間を傷つけてきたことは想像に難くない。

満月がだんだんと翳っていくように、ターの完璧でない部分が見えてくる。ター自身、自分のキャリアが終りに近づいているのを自覚しているし、若い世代との価値観のずれも感じている。ターはオルガが自分を崇拝してあたりまえだと思っているが、オルガのほうは実は裏でターのことを完全に馬鹿にしている。

ターがオルガを車で彼女の自宅まで送っていく場面、オルガはスラム街のような建物に入っていく。一流のクラシック楽団に入ろうとしている彼女がこんなところに住んでいるのだろうか? 車に忘れたぬいぐるみを返そうとターはオルガを追いかけて建物に入っていくが、そこはスラムというより廃墟のようなところで、本当にここにオルガが住んでいるのか、そもそもこの部分は現実なのか怪しくなってくる。そう思うと、才能があり、ターに臆することもなく、美人で、裕福な生まれではないというオルガはターの分身のようでもある。そのオルガがターをディスるのは自己批判の表れなんだろうか。

廃墟から逃げ出そうとしたターが唐突に地面に倒れる。場面が変わり、ターの顔面には痛々しい傷がある。彼女はそれを”男に殴られた”と説明するのだが、画面に襲撃者は映っていないし殴られたというより一人で転んだように見える。この場面以降はターの幻想であるという解釈もあるらしい。たしかに殴られたという説明は唐突で、しかし顔に残った傷跡は転んでできたというよりも、殴られたもののように見える。

蓄積されてきたひずみがある日ダムを決壊させ、ターは地位、名誉、家族、友人、すべてを失うことになるのだが、物語はそこで終わらない。

アメリカやヨーロッパで一流のオーケストラで指揮をすることはおそらく二度とできなくなったターだけど、指揮者であることをやめようとはしない。マスコミを避けるため実家に戻る場面で、リディア・ターという名前は本名ではないことがわかる。ヨーロッパ系の響きがある名前のほうが受けると考えたからだろう。彼女は単なる傲慢なエリートではなく、叩き上げのタフさがあることが示される。そして何もかも失ったが、音楽への愛は純粋であることが描かれる。

美しき天才の転落と再起の姿を描いたこの映画の主人公を演じるのが男性だったらどうだろうか。かなり飲みこみづらい物語になっていたんじゃないだろうか。人は見た目がいい人間は内面もいいはずだという偏見を持ってしまうらしい(テッドチャン「顔の美醜について──ドキュメンタリー」参照)。美と才能を併せ持つことが、ターに神のごとくふるまう権力を与えた。腐敗して人々を傷つけ続けていた権力者だが、音楽への愛は純粋で、反省し変わろうとしている。映像的には幻想的で美しい映画だが、権力を持つ者にとって都合のいいファンタジーを与える危険性もあるんじゃないだろうか。

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