テニスを経由しないと成就できない男同士の愛/『チャレンジャーズ』考察

映画

この映画の構造は、パトリックとアートとゼンデイヤ演じるタシとが出会って、部屋で3人で飲んだあとのキスシーンに象徴されている。3人が同時にキスをしているうちに、いつのまにかパトリックとアートの2人だけでキスをしている。その様子をタシはほくそ笑みながら眺めている。

タシから「そういう関係」なのかと聞かれた2人は否定するが、2人がお互いを強く求めあっているのは明らかだ。一人だけ大学に進学したアートが練習しているシーンで、サーブをしようとするアートにヤジが飛び、イジメられているような様子のところにパトリックが現れると、アートの表情がぱっと明るくなる。食堂でも楽しそうにじゃれあいながらお互いのチュロスをかじる。

アートにマスターベーションを教えたのがパトリックだった。2人は1つの部屋でいっしょにオナニーすることになり、当時の同級生を”オカズ”にしたと言うのだが、どうも嘘くさく聞こえる。実際、2人は誰を想い浮かべていたのだろうか。

2人はお互いを求めあっているが、社会やスポーツ界に存在するホモフォビア(同性愛嫌悪)のせいで、2人だけでは接近することができない。しかし、タシとテニスを媒介にすることで結びつくことができる。それは3人でのキスシーンやラストで抱き合う2人の姿にはっきりと表れている。

この構図はイヴ・K・セジウィックが『男同士の絆』で説いた構図とまったく同じだ。セジウィックはこの構図は女性差別的でもあると指摘する。たしかに、天才テニスプレイヤーであったタシのキャリアは怪我のために大学選手どまりで途絶し、2人を媒介する存在にさせられているようにみえる。

2人と初めて出会ったタシは、自分にとってテニスは自己表現だと語る。タシが考えることは常にテニスのことだけ、アートと結婚した後も彼女が求めるのは夫や娘の父親としての役割ではなく、ひたすらテニスプレーヤーであることだけだ。タシは生身の女性というより、よくいえばテニス愛を体現し2人の男の運命を操る女神、悪くいえばテニスのためなら家族も捨てるテニス・サイコパスだ。

映画はタシをたんなるサポート役や2人の媒介というだけの存在にならないよう、彼女を気高く美しく強く描いている。しかし、ラストシーンでコート上で戦い抱き合う男2人に対して、タシは観客席からそれを観ているだけだ。

2人はタシ=テニスを通じてしか結ばれないからこそタシとテニスを求めていた。しかしタシがパトリックと別れてアートと結婚したことで、アートとパトリックは疎遠になり、いくらアートがテニスに打ち込んでもパトリックと結ばれることは叶わなくなってしまった。そのことによって疲れ果てたアートは、テニスもタシも諦め引退を考えるようになる。

一方で、パトリックのほうもテニスは金を稼ぐためといいながらほぼ一文無しの状態で、それでも自分の才能に見切りをつけることができずにテニスを続けているのは、アートを求めているからこそだろう。

タシは、負け続きのアートに自信を付けさせるため、パトリックに決勝戦でわざと負けるよう頼む。パトリックがその頼みをきいて負けることにしたのはアートを想ってのことだろう。しかし、決勝戦でマッチポイントになった瞬間、タシが自分とセックスしたことをアートに伝えることで、パトリックからアートを”略奪”したタシへの復讐を果たす。

そのことによって、自分が愛していたのはタシという生身の女性ではなく、テニス=パトリックだったのだと気づいたアートは、ネットを越えて激しくパトリックとぶつかり一つになる。

怪我のためテニス選手であることを諦めざるをえなかったタシ、タシのためにテニスを追求することに疲れ果てているアート、テニス選手としての凡庸さを認めることができずくすぶっているパトリック、三者三様に人生の下降線をたどっていた3人の人生が再び絡みあい、それぞれのテニスへの純粋な愛が混然一体となり浄化されるというラストになっていて、後味は決して悪くない。

しかし、3人の中では一番知名度の高いゼンデイヤを目当てに映画館に来て、彼女を視点人物として映画を観た観客は違和感を抱いたかもしれない。その違和感の正体は、この映画がタシの物語ではなく2人の男の絆と愛を描いた映画だったからというところにあるのではないだろうか。

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