両立論を主張するデネットとハード非両立論を主張するカルーゾーの論戦。
2人とも決定論を受け入れていて、自由意志論者(リバタリアン)が主張するような<自由意志>は否定している。
決定論とは、たとえばドミノ倒しのように、あるドミノが前のドミノを倒しさらにそのドミノが前のドミノを倒し……というように、人間の脳内現象も含めたあらゆる現象は自然法則に従っていて因果的連鎖の中にあり、一意に決定されているということ。
自由意志論者は、決定論が真であれば自由意志は存在しない、だから決定論が間違っているか、ドミノを自由に並び替えたり倒れるのを止めたりすることができる能力としての<自由意志>の存在を論じる。
デネットのような両立論者は、決定論を受け入れつつも、自由意志論者のいう<自由意志>ではない「自由意志」が存在していて、この「自由意志」は決定論と両立すると主張する。デネットの両立論を自分が理解した限りで解説すると次のようになる。ある人の行為や選択は、熟慮とか判断と呼ばれるプロセスのひとまとまりが「原因」となるのであって、すべての脳内現象の微細なプロセスがすべて自然法則に従い、因果的連鎖のなかで一意に決定されているとしても、たとえばうどんを食べるのかそばを食べるのかという選択は、1つの分子の結合とか1つの神経シナプスの反応によって引き起こされるのではない。熟慮などを経た行為とそうでない行為の区別することはできるし、前者の行為は「自由意志」による行為と呼ぶことができ、そうした行為には「道徳的責任」が伴う。熟慮とか理性的判断による行為はその人によって「コントロール」された行為といえるのであり、たとえば十億年前に起きた一つの原子の分裂からその人のある行為までがひとつながりの因果的連鎖によってつながっているのだとしても、十億年前の原子の分裂がその行為を「コントロール」しているのではない。
論戦の中で、カルーゾーは<自由意志>を否定し、デネットは「自由意志」は存在すると主張しているというすれ違いが起こっているようにみえる。
たとえば、テレビドラマの登場人物たちは脚本に書かれたとおりに行動する。ドラマの中のレベルでは「自由意志」は存在している。しかし、ドラマの外から見れば、俳優たちはただ脚本に従って行動しているだけで、<自由意志>は存在していない。あくまで脚本に従っている行動なのに「自由意志」があるというのも無理があるような気がするし、しかし、<自由意志>について語るには、ドラマの外側、われわれについての場合はこの現実世界の外側に立たなければいけない、ということになって、それがどういうことなのか、可能なのかもよくわからない。
論戦の後半は「罪への<相応しさ>」について議論されていく。2人の議論は難しくて深く理解できたとはいえないけど、2人の考える<相応しさ>もそれぞれ別のものらくし、やはりすれ違いが起こっているように感じた。
カルーゾーは<自由意志>だけでなくデネットの「自由意志」も否定する。現在の司法システムは受刑者に与えなる必要のない苦痛を強いるシステムになっていて、それは自由意志が存在するという信念が応報主義的な考え方を下支えしている、と考えるからだ。
デネットも現状の司法システムは完璧ではなく改善の余地はあると考えている。カルーゾーの提案する公衆衛生ー隔離モデルで本当にうまくいくのか、現状のシステムはそこそこうまくいっているし、それを改善し続けていけばよい、「自由意志」の概念を捨て去ってまで公衆衛生ー隔離モデルに移行する必要があるのだろうか、というデネットの考え方も一理ある。
それに、カルーゾーのような楽観的自由意志懐疑論者は自由意志の概念を捨て去っても道徳的責任がなくなると考えてるわけではないけど、すべての人々がお互いを自由意志のない存在として扱う世界を想像してみると、万人に受け入れられる日が来るのだろうかと思ってしまう(SF的にはクールでおもしろいけど)。
しかし、司法制度や罰についての考え方は、古代の「目には目を」から現代まで変化してきたいる。近代以降は私刑、復讐を禁じるようになり、死刑制度も廃止する国が多くなっている。自由意志についての人々の考え方が変わっていけば、カルーゾーの考えている方向へ(司法制度だけかもしれないけど)だんだんと変わっていく可能性も十分ありうるんじゃないだろうか。
一方で、デネットも「自由意志」が絶対に必要なのだとか、カルーゾーの公衆衛生ー隔離モデルは絶対にうまくいかない、とまでは論証できていないように思う。
デネットとカルーゾーとどちらのほうが説得力があるのかは、自分の力で議論を嚙み砕いて考えるしかないんだけど、それには私の哲学力が足りないのでほとんど印象論になってしまうけど、デネットの議論は、「ああ言えばこう言う」じゃないけどカルーゾーの議論の部分部分に反論している感じだし、常に「常識」を守ろうとするように見えて、無責任な言いかたをすれば、セクシーではない。ということで、論戦はカルーゾーの方を応援しながら読んでいた。
自由意志について考えるとどうしても『TENET』について考えてしまう。あの物語はハードボイルドならぬハード決定論ボイルド、ハード非両立論ボイルドと呼べるんだろうか。それとも両立論的な物語なんだろうか。人間は自由意志を完全に否定したままで日常生活を送れるんだろうか?
カルーゾーと共同研究もしているペレブームに『自由意志なしで生きる(Living Without Freewill)』という著書があるみたいなので、なんとか翻訳されないものだろうか。
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