ハード決定論がテーマのハードSF。最終話の矛盾は何を意味するのか?/『Devs/デヴス』感想と考察

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映画『エクス・マキナ』『アナイアレーション』そして最新作『シビル・ウォー アメリカ最後の日』の監督アレックス・ガーランドによるTVシリーズ『Devs/デヴス』は決定論が重要なテーマになっている。この作品が配信された2020年には同じく決定論がテーマの『テネット』が公開されている。

決定論とは、この宇宙で起こることはすでに決定されているという考え方のこと。ハード決定論とは、決定論を受け入れるなら自由意志は存在しない、自由意志は幻想である、という立場のこと。

googleをさらに強力にしたようなIT企業アマヤのCEOフォレストは、”Devs”と呼ばれる秘密のプロジェクトを進めている。主人公のリリーは、恋人であるセルゲイがDevsに関わった直後に死んだことで彼の死の背後には陰謀があると考え、Devsやフォレストの秘密を探りだそうとする。

ネタバレをしてしまうと、Devsとは超強力な量子コンピュータで原子レベルで地球をまるごとシミュレーションするというプロジェクトだった。このレベルでシミュレーションすれば、現在の状態から過去の出来事を再現でき、また未来も予想できる。そして、決定論に従えば、Devsに映し出された未来の映像は必ず起こることになる。実際、Devsは成功し、開発者たちが1秒先の自分の姿を映し出すと、1秒後にその映像のとおりに行動してしまう。

最終話のラスト近くまで、ドラマは決定論に従っている。Devsのラボにやってくると予言されたリリーは、Devsのシステムが間違っていて自由意志が存在することを証明するために家にいることを決意するが、最終的には予言通りにラボにやってきてしまう。しかし、最後の最後でリリーはDevsが見せた映像とは違った行動をとる。

この瞬間まで、このドラマで起こることはすべて決定論の正しさを証明していたのに、なぜリリーは決定論を覆すことができたのだろうか。多世界解釈でも説明はできない。フォレストやケイティが驚愕していることから、リリーの行動がDevsの予言を裏切ったものであることがわかるからだ。最後に視聴者の予想を裏切る展開をいれたかったのだろうか? だが意外な展開はそのあとにも用意されている。わざわざここで意外な展開を入れる必要はないように思われる。しかもリリーとフォレストが死んでしまうことは変わらない。未来を変えようと別の行動をしても結局は予言通りになってしまう、というのは決定論ではなく運命論だ。これまでずっと貫かれてきた決定論というテーマが最後の最後でぶれてしまうのだ。これはなぜなのだろうか?

この作品はキリスト教もモチーフになっている。Devsとはラテン語のDeus(神)の意味だし、主人公の名前リリー=百合は純潔、無垢、聖母マリアを象徴し、白百合は復活したイエスを象徴する。リリーとフォレストは「死後の世界」に復活する。作中には出てこないが、「意図的な欠陥」を意味するペルシャン・フロウ(Persian flaw)という慣用句がある。ペルシャ絨毯の職人が絨毯に意図的に欠陥を入れることで、完璧なものを作ることは神への侮辱でああり、完璧なのは神だけであると示すことからきている。この作品にもう一つ、いちIT企業のCEOが世界を変えてしまうほどのパワーを持ってしまうことの危険性、そんなパワーを持ったCEOは必然的におかしくなってしまうのではないかと警告するという側面も持っている。もしかしたらガーランド監督はあえて作品に矛盾を仕込むことで、人間の謙虚さを強調したかったのかもしれない。

リリーの”選択”の他にも不可解なことがひとつある。Devsのシステムはある時点から先は予測できず映像は砂嵐のようになってしまっていた。リリーの”選択”が本当に自由意志を発揮したということならその時点から予測不能になるべきなのに、実際に予測不能になるのはそれからしばらくたったあとの時点なのだ。過去なら何億年前までシミュレーションできるのに、この物語のラストを示す時点が予測できなくなるというのは都合がよすぎるのではないだろうか。Deus(デウス)とガーランド監督作『エクス・マキナ』をつなげれば”デウス・エクス・マキナ”になる。デウス・エクス・マキナとは機械仕掛けの神、古代ギリシア劇の最後に現れて強引に物語を解決してしまう技法のこと。あるいは監督は自作のタイトルにひっかけて、都合のいい設定を持ちこんだということなのだろうか。

あるいは、ラボで働いていたリンドンは決定論の示す”完璧な円”を受け入れることでダムから落ちて死んでしまう。『テネット』では物語は完璧な円を描くように終わっていた(始まっていた)が、”完璧な円”は不吉なものとして避けようとしたのだろうか。

小説や映画、ドラマはまさに決定論の世界だ。われわれはこの物語の先がどうなるのだろうとハラハラしながら読んだり観たりするが、実際には物語の結末はすでに書かれている。キャラクターたちは”自由な”選択を行うがそれはすべて脚本に書かれているとおりに演じているにすぎない。フォレストたちは誰がいつ死に、自分たちが殺人を犯すこともわかっていたがそれを変えようとはしなかった。決定論を受け入れていたからだ。フォレストは最終的には多世界解釈を受け入れたようにみえるのに、多世界解釈が理由で解雇したリンドンをなぜ死なせなければならなかったのか? 『テネット』のセリフでいえば”起こることが起こった(What’s happened, happened)”としかいえないだろう。決定論を受け入れさえすれば、不条理で辻褄の合わない展開もいいわけできてしまうというのは興味深い(やりすぎると観客はついてこなくなるだろうけど)。

ともあれ、われわれには1秒先に何が起こるかさえわからない。われわれは自由意志の幻想を抱いたまま生きて行くだろう。OpenAIがChatGPTを発表し、AIが世界を変えてしまうかもしれないといきなり大騒ぎになったように、いつかシリコンバレーかどこかのIT企業が自由意志は存在しないと証明するまでは。

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