オスカー女優であるエリザベスは現在では忘れ去られ、仕事は朝のフィットネス番組のみになっている。年齢を理由にその番組もクビにされたエリザベスは「サブスタンス」という謎の若返り療法によって、若く美しい分身スーと1週間ごとに入れ替わる人生を手に入れる。
スーの若さと美しさはまるで全身からエネルギーを放射しているようだ。そのエネルギーは隣に住んでいる男や、エリザベスをクビにしたハーヴェイや株主たちも平伏させる。しかし、自分自身の後釜であるフィットネス番組のホストになったところで、それは結局ハーヴェイに利用されあらためて若さと美しさを搾取されることでしかない。
フィットネス番組のホストは見た目がすべてであり、内面など必要とされない。エリザベスは外面のみの美しさの最後の1滴まで搾り取られて空っぽになり捨てられたのだ。外見至上主義を自分自身も内面化してしまい、それ以外の人生のものごとに価値を見出すことができていないエリザベスは、スーと交代した一週間を家でテレビを見て過ごすことしかできない。
人は永遠に若くいることはできない。1分1秒ごとに老いていく。若さを至上価値とすることは必然的に自己否定につながる。分身はお互いを憎みあうものだが、エリザベスとスーもお互いを憎み争うようになる。
ルッキズムに囚われ自分自身を傷つけることになるエリザベスとスーの姿は切なく苦しい。美を搾取するシステムの罠からどうすれば脱出できるのか、ファルジャ監督はすでにその方法を映画にしている。2014年の短編「リアリティ・プラス」だ。「リアリティ・プラス」のラストで登場人物の二人は外見至上主義から抜け出してお互いと自分自身を認める可能性が描かれる。
本作では監督はそのような結末を用意しなかった。若さと美しさがすべてという価値観を内面化してしまうとどうなるかという悲哀を描き切ることにしたのだろう。
“モンスター”と化したエリザベス/スー、モンストロ・エリザスーは、年越し特番の生放送をめちゃくちゃにする。しかしそれだけだ。さまざまなホラー映画からの引用もある本作だが、人々が惨殺されるシーンが展開されることはない。血まみれになったモンストロは『キャリー』を連想させるが、キャリーが自分を虐げた人々に復讐を遂げるのと違って、モンストロがハーヴェイや株主たち、若さと美を搾取するシステムに復讐することはない。外面至上主義を内面化し、システムに搾取され尽くしたエリザベスにはそのような力は残されていない。傷口から血を大量に流すだけの姿はただただ弱弱しく憐れだ。
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