著者は自由意志説者として「自由」の存在を擁護する。決定論と自由意志は両立しない、という非両立論の立場だ。
決定論と自由意志は両立するという両立論の立場も存在する。この本ではホッブズが代表として挙げられている。ホッブズによれば、あらゆる出来事や人間の行為も原因と結果の連鎖で起こる。だから「自由」な行為とは、誰にも強制されていない行為がそう呼ばれるにすぎない。しかし著者は、それはわれわれが信じる「自由」ではないのではないかという。
たしかに、決定論者でも日常生活では自分を操り人形のようには感じていないだろう。われわれは「自由」に行為していると感じながら生活している。でも頭がかゆいから頭を掻いたり、おなかが空いたから食事をしたり、原因がある行為というのはいっぱいあって、それは「自由」とはいえないんじゃないかという気になってくる。決定論者に否定されなくても、「自由」概念は脅かされることがあるのだ。
著者によると、われわれが信じている「自由」な行為は、強制されたり命令されたものではないというだけのものではない。もちろん因果的必然性の結果であってはならないし、神の摂理や完全な合理性の中にあるものでもない。
著者は散歩を続けるかどうかという例を挙げているけど、僕自身は文章を書いている場合というのが頭に浮かんだ。たとえば夕陽を描写する文章を書いていて、「熟れたトマトのような」という表現を使うことにしたとする。そのときなぜその表現を使うことにしたのか、理由はわからない。ふと思い浮かんだとしかいいようがない。最近スーパーでトマトを見たからだとか「原因」となることはなにかあるのかもしれない。しかし、その時点ではわからないことだ。それなのにわざわざ「原因」を作り出す必要があるだろうか? と著者はいう。
著者は、そういうった「決心」こそが「自由」なのだという。私が私自身によってした「決心」だからその責任も私が負うことになる。ここらへんの「決心」について書かれた部分はわかりにくくて、よく理解できていないのかもしれないけど、「自由」だとしか思えないから「自由」なのだということなのだろうか? しかし、われわれが日常的に考える自由意志の「自由」とはどういうものか、どういうものであらねばならないかが分析されていて、その点はおもしろかった。
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