「自由意志は存在するのか」という自由論について、選択ー非両立論という立場から論じられている。自由意志懐疑論者である私も日常生活では今晩なにを食べるかというようなことは”自由に”選択できると感じていて、「ほんとうのところ自由意志は存在してないのだ」ということに不思議さを感じる。この不思議さがどこからくるのか、決定論を受け入れる時に失われるように感じる「自由」とはどのようなものなのか、それを考えさせてくれる本だった。
著者の選択ー非両立論とはどのような立場か。
未来に起こることは自然法則なり神の意志なりによって決まってしまっている、というのが決定論だ。この決定論と自由意志は両立しないという考え方が非両立論になる。自由意志を否定する非両立論もあるし、自由意志は存在するが決定論とは相いれないという非両立論もある。
決定論と自由意志はは相いれないという非両立論に加えて選択可能性も必要になる、というのが著者の選択ー非両立論という立場だ。
自由意志があるというときの「自由」とはどのような意味なのだろうか。著者は「ああすることも、こうすることもできる」「これから何をするか、もしくは将来何をするのか、それに関して複数の選択肢が存在し、そのうちから何をするかを自ら選び出せる」ことであると表現する。
著者の立場である選択ー非両立論は、選択可能性がなければ自由意志があるとはいえないと考える。たしかに、別の選択肢も存在していたという可能性がなければ、日常的な意味での「自由」は存在していないように思えるし、両立論が「意志」の存在を証明するだけで「自由」については証明できていないように思えるのはそのせいだろう。
しかし、選択可能性が必要であるということは、また別の難題も生んでしまう。AかBかという選択肢がある場合、最終的にどちらの選択肢を選ぶかは何によって決定されるのだろうか。ある時点でどちらかの選択肢を選択する「必然的な」理由が存在するというなら、それはその時点で他の選択肢を選ぶ余地(自由)がないということになってしまう。逆に、そのような理由が存在しないならば、どちらの選択肢が選ばれるかは偶然ということになり、「自由」は存在するが「意志」が存在しないことになってしまう。
ある行動をする理由・動機がある状態と、実際に実行される行動の間には断絶がなければ、「自由」があるとはいえないということになる。自分の行動を完全にはコントロールできないという不自由さがなければ「自由」は存在しなくなってしまうのだ。
我々が日常的に経験している(自由意志懐疑論者の立場からすると仮想現実的(バーチャル)な)「自由意志」とは、この断絶(ギャップ)を目隠しして飛び越える(いつの間にか飛び越えられている)ことで成立しているのだ。
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