“善悪の彼岸”をめざす、ニーチェ的ロマンティック・コメディ/リチャード・リンクレイター監督『ヒットマン』感想と考察

映画

大学講師がひょんなことからおとり捜査の偽物の殺し屋を演じることになるという実在の人物ゲイリー・ジョンソンをグレン・パウエルが演じる。

偽の殺し屋を演じるゲイリーが次々と個性的な変奏をして殺人の依頼者たちを逮捕していく様子がコミカルに描かれる。しかしマディソンとの関係が深くなるにつれ、予想外に犯罪サスペンスのようなダークな展開になっていく。ゲイリーとマディソンは道徳的には悪とされる方向に向かっていく。

『バーナデット ママは行方不明』と同じく、「自分の殻を破ること」が本作のテーマの1つになっている。バーナデットが極度の人間嫌いで隣人トラブルを起こし人生の袋小路に閉じこめられそうになっているのに対して、ゲイリーは人と深くかかわるのが下手で2匹の猫と地味な暮らしをしていて、生徒や警察の同僚からはつまらない人間と思われているものの、そこまで強く変わらなければならないとは思えない。だから、ゲイリーが違法でモラルに反する行為に手を染めることに抵抗を感じてしまう。

物語の主人公はどこまで道徳的でなければならないんだろうか? 『氷の微笑』とか、ケヴィン・ベーコン主演の『ワイルドシングス』とか、『ゴーン・ガール』とか、善人でない主人公が罰せられずに終わっても気持ちが離れない映画もいっぱいある。『ワイルドシングス』でも主人公たちは金のために人を殺すのだが、殺されるのも悪人とはいえ、悪徳は悪として描かれている。しかし本作はそうではない。「道徳的な”善い”ことではなく”良い”ことを追求するのが人生には重要だ」というニーチェ哲学的な考えが、本作のもう1つのテーマになっているので、たとえゲイリーとマディソンが法を犯したとしても、それをどろどろとしたインモラルなものには描かず、映画のトーンは最初から最後まで明るい。本作は「悪」を「悪いこと」とは描いていないのだ。これも観客が抵抗を感じてしまうポイントになっていると思う。

マディソンが夫にしたことは”理論的には”正当防衛といえなくもないかもしれない、でもジャスパーはひどいやつとはいえ、正当化できるかどうか……。あと最初ゲイリーは猫派で2匹の猫を飼っているのだが、結末では犬派になって2頭の犬を飼っており猫はどこかにいってしまう。まさか猫は捨ててしまったのだろうか? 細かい点だがひっかかってしまう。

おとり捜査のあいまにゲイリーの大学講師としての日常のシーンが挟まれ、人間は変われるかということやニーチェ哲学や民主制以前の原始社会の制裁についてなど、伏線(?)は用意されているのだが、グレン・パウエルが変装して何人もの殺し屋になりきるバリエーション(熱演なのだが)や、マディソンとのコスプレ・ラブシーン(ゲイリーの殺し屋の変装と対応してるんだろうか?)がたっぷり描かれるのに比べて、2人が法律的・道徳的な一線を越えてしまう展開は唐突に感じられてしまう。

こちらの記事を読むと、 映画中盤以降の展開はモデルになった人物とかけはなれていて、監督をはじめ彼をよく知る人にとっては「そんなわけない」と笑える、いわば内輪ネタみたいになってるのかもしれない。映画の最後でも実在のゲイリーの写真と人柄(超イイやつ)、実際には殺人なんてしてないことが紹介され、あくまでフィクションであることが強調される。

あと、本作が悪を悪と描かず終始明るいトーンなのはファム・ファタルものになるのを避けるためでもあるんじゃないだろうか。

『カルメン』や『氷の微笑』、マドンナとウィレム・デフォーの『BODY/ボディ』など、アダムとイブの物語からオペラ、小説、映画と、男が奔放な女性に出会って悪の道に堕ちていくという物語が無数に描かれてきた。男を堕落させ破滅させる女性はファム・ファタルと呼ばれ、たいていそのような女性は物語の中で悲惨な末路を辿って罰せられることになる。ファム・ファタルものは、「男が堕落するのは女のせいだ」というミソジニー的な表象だと指摘されてきた。本作も、真面目な男だったゲイリーがマディソンと出会い、違法行為に手を染めるようになるという点ではファム・ファタルものそのものに見える。しかし本作は悪を悪と描かない、だから堕落も背徳も地獄も存在せず、マディソンはファム・ファタルとして罰せられずに済むのだ。ただそのせいで一般的な道徳観で映画を観ることに慣れている観客を置き去りにしてしまうかもしれないが。

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