『アノーラ』の物語はドストエフスキー『罪と罰』に似ている。主人公アノーラはロシア系アメリカ人で、彼女と出会い結婚することになる大富豪の御曹司イヴァンもロシア人なのは意図したものなのかはわからないが。
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは極貧生活をしている大学生で、ある日、金を工面するために妹が成金と結婚させられることを知る。酔っ払いのマルメラードフは貧乏なせいで娘が娼婦になってしまうことを嘆いている。貧乏人は苦しむために産まれてきたような生活から一生抜け出すことができない。ラスコーリニコフは自分のような優れた人間のためなら殺人も許されると考え、高利貸しの老婆を殺して金を奪う。しかし、法律やキリスト教道徳を否定することは人間の社会にはいられないということを意味する。あらゆる人間の絆から疎外された存在になるか、死ぬまで社会の底辺で苦しみ続けるか。葛藤するラスコーリニコフは、最後には信心深い娼婦ソーニャに救われることになる。
『アノーラ』の主人公はストリップ・クラブで働くダンサーで、ある日クラブにやってきたロシアの大富豪の御曹司イヴァンと出会う。個人的な契約を提案され、数日豪遊して過ごすうちイヴァンから結婚を申し込まれる。ラスベガスで即席の結婚式を挙げて正式な結婚をするが、イヴァンの両親は結婚を無効にしようとトロスやイゴールを送りこんでくる。
アノーラは娼婦ではないが、シェアハウスに住んで家賃を節約するような生活をしている。しかしそのような境遇に甘んじるつもりはなく、同僚の客を奪ってでも金を稼ごうとするし、結婚を無効にしようとやってきたトロスたちをアノーラは口汚く罵り、殴り、蹴り、徹底的に抵抗する。
イヴァンの親の命令を絶対として犬のように働かされるトロスたちとアノーラは、金や権力に対して抗うことができない無力な存在であるという点では似たような存在だ。必死で仕えようとするか、無謀でも肩を並べようとするか。イゴールに対するアノーラの態度はひどいものだけど、人に優しくしてなんになるのか? 優しい負け犬になるだけじゃないか。トランプやイーロン・マスク、フェイクをまき散らすインフルエンサーたちは、そうやって他者の心を踏みにじり、そのことによって金や権力を得ている。自分も同じようにして何が悪い? 理不尽で不公平きわまりない格差に対して、アノーラは怒りを炸裂させる。
アノーラは必死で抵抗するが、観客はイヴァンの態度を見てこのシンデレラ・ストーリーがハッピーエンドにはならないとわかっている。結局、イヴァンは親のいうとおり結婚を無効にし、アノーラが絶対に離すまいと握りしめていた勝ち組になるという夢は、指を一本一本引きはがされるように奪われてしまう。
全速力で突っ走っていたアノーラは予想もしていなかった透明な壁に激突して打ちのめされる。アノーラの傍若無人ぶりという罪に対して、残酷な罰が与えられる。トランプやイーロン・マスクなどのクソ野郎たちが権力のトップまで昇りつめる一方で、アノーラはふたたびただのストリップ・ダンサーに戻らなければならない。
アノーラの仕打ちにもかかわらず彼女に対して思いやりを見せていたイゴールは、映画のラストシーンでアノーラを慰めようとする。しかし、イゴールの優しさを受け入れることは自分の失敗を認めることであり、自分の生き方を否定することだ。トランプやマスクと違って、彼女には彼女の前のめりな生き方以外に何もないのだ。
『罪と罰』は次のような文章で終わる。
しかし、ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。
江川卓訳 岩波文庫
雪に降りこめられた車の中で抱き合うアノーラとイゴールは、シベリアに追放されたラスコーリニコフとソーニャを思わせるけど、アノーラは明日からどうするのだろうか。この失敗で少しだけ「更生」して生き方を改めるのだろうか。それとも彼女の信念を貫き通すのだろうか。彼女の物語がハッピーエンドになることを願ってしまうが、この映画の結末は残酷でどこにも出口がない。
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