『男はクズと言ったら性差別になるのか』感想と考察

読書

原題は”Arguing for a Better World How to Talk About the Issues About That Divide Us(よりよい世界のための議論 われわれを分断する問題についていかに語るか)”。

“男はクズと言ったら性差別になるのか”については第4章で論じられていて、他の章では”白人にむかって人種差別的な言動をとれるか”、”「ポリティカル・コレクトネス」は行きすぎたか”、”「犬笛」は何が問題か”、”誰が誰をキャンセルしているのか”、”「構造的不正義」は私たちの責任なのか”など、性差別だけじゃなく、人種差別、キャンセル・カルチャー、環境問題、資本主義の問題点など構造的不正義全般について論じられる。

『セックスする権利』や『ひれふせ、女たち』『存在しない女たち』『バッド・フェミニスト』など引用される本がだいたいすでに訳書が出ているので、これらの本を全部は読んでられないという人にとってはつまみ食いできてお得かもしれない。

著者はクルド系のイギリス人女性で、議論をただ紹介するだけじゃなく、自身の体重が乗った熱量が感じられる。

〇「逆差別」について

差別には抑圧の歴史とそれを原因とする構造的抑圧が存在している。女性から男性への侮蔑的発言や、人種マイノリティからマジョリティへの中傷などを「逆差別だ」ということはできない。女性から男性への構造的抑圧や、人種マイノリティがマジョリティを差別してきた歴史など存在しないから。

〇インターセクショナリティ

人間には様々な属性があり、人種的にはマジョリティでも性的にはマイノリティだったり、男や女という属性だけではくくることができない。

家父長制の抑圧の『純粋な』事例だけど――カースト、人種、階級の要因によって『複雑化されていない』事例だけを――扱うフェミニズムは、結局のところ豊かな白人やカーストの高い女性のニーズに資するものになる
p.43
アミア・スリニヴァサン『セックスする権利』からの孫引き

インターセクショナリティを意識しないと、J・K・ローリングのような、トランス女性を迫害する「ジェンダークリティカル」フェミニズム、「トランス排他的ラディカル」フェミニズムに陥ってしまう危険性がある。

〇犬笛の問題

現在ではあからさまな人種差別発言というのはもはや公的な場所では誰にも受け入れられなくなっているから、あからさまな表現を避けたいっけん差別とわからない「犬笛」が吹かれることになる。しかも、あからさまな表現よりも「犬笛」のほうが見聞きした人はよりの差別的になるという研究が紹介されている。いっけん差別とはわからない「犬笛」をそれは「犬笛」だ、差別なのだと指摘していくことが重要にある。

〇抑圧構造の悪循環

コロナ禍のロックダウン中、無観客の試合では黒人選手のパフォーマンスが上がり、非黒人選手のパフォーマンスは変わらなかったという研究が紹介されている。人種マイノリティへの観客の視線、失敗したらどのような差別的バッシングを受けるかという重圧がいかに強いかがわかる。

被差別属性のある人たち、抑圧された人々は、トラブルに巻き込まれるのを避けるために自分の気持ちを偽り、自分の気持ちを飲みこんで沈黙し、他者や自分に嘘をつく。社会に嘘をつかされているといえる。それなのに嘘をついていることがばれれば「あいつらは嘘つきだ」と自分たちと同じアイデンティティを持つ人たちへの差別を深めてしまう。そんなダブルバインドにある。

ある集団に対するステレオタイプ、偏見がこの重圧を生み出している。偏見により信用されやすい集団とそうでない集団が存在しているという事実にまずは目を向ける必要がある。

〇キャンセル・カルチャーについて

「キャンセル」は差別など有害なことをする個人や企業に対し罪を償わせようとすることだけど、”キャンセルすることは最善で最重要な方法ではない”と著者はいう。ソーシャルメディア上の個人を裁くことは感情的にはすっきりするかもしれないが、差別的構造はなくならない。ソーシャルメディのシステムは”キャンセル”の有害性を拡大するように作られているし、正義を実現するようには作られていない。

ただ、個人として有害な行動をした有名人の作品を観ない/聴かないようにするとか、戦争に加担する企業の商品をボイコットするとか、そういうことは個人を叩く”キャンセル”とは別のことだ。

〇「男はクズ」は性差別か?

アメリカの銃乱射事件の犯人の97%が男性であり、イギリスでは殺害された女性の半数がそのパートナーか元パートナーによって殺されている(逆に被害者が男性の場合は3%にすぎない)。世界的にみても、殺人の被害者の80%が男性、殺人者の95%が男性、自殺者の75%が男性であり、男性性、「男らしさ」に何か問題があるのは明らかだ。男性性に苦しめられている男性もいるが、その男性が「男らしいかどうか」を監視しているのは男性たちである。

「男はクズ」というのはそんな女性差別的で有害な男性性がはびこる社会に対する怒りから生まれたハッシュタグムーブメントだった。「男はクズだ」というのは怒りと告発と正義を求める叫びであり、それをヘイトスピーチだとか逆差別にはあたらないし、「すべての男がクズではない」とエクスキューズを与えることは性差別に加担することになる。

ナチスドイツ政権下で「ユダヤ人はクズだ」といったら虐殺につながる差別だけど、「アーリア人はクズだ」ということはレジスタンス活動になる。だから男尊女卑社会で「男はクズだ」は差別にならない。

〇いち個人でできることにどれほどの影響力があるのか……

気候変動、環境問題は人種差別問題でもある。多くのエネルギーを使用し、肉を食べ、二酸化炭素を排出しているのは北半球の人間であり、より多くの悪影響を受けるのは南半球に住む人たちだ。過去の帝国主義、奴隷制、植民地主義などの影響がいまも残っているせいでこのような構造になっている。しかも資本主義経済は、安い労働力や先進国に一方的に搾取されるための天然資源などをぜひとも必要としている。

環境問題も人種差別も性差別も巨大な構造の問題であり、それに対していち個人がすることの影響は微々たるものでしかない。小さなプラスチック製の結束バンドを使うかわりに木製の洗濯ばさみを使ったところで、マイクロプラスチック問題や気候変動に与える影響はまったくないといえる。

しかし微々たる影響しかないとしても、差別に加担する側にいて平気なのか? この世界で生きて行こうというのなら、構造的不正義に抗うためにまったく無駄になるような行動ではなくできるだけ効果的な選択肢を探し、反差別の行動が資本主義に回収されてしまうような罠に陥るのを避け、なるべく楽観的にならなければ。

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