ドストエフスキー『作家の日記3』小沼文彦訳(ちくま学芸文庫)と中編「柔和な女」読書メモ

『作家の日記』4,5,6と読んでもういいかと思ってたんだけど、収録されてる中編「柔和な女(やさしい女)」を読んどかないとと思って。あいかわらず政治評論には反発しか感じないけど、激しい主張のエネルギーがぴりぴりとページから伝わって充電されるようで癖になる。

7月・8月号は温泉のある保養地エムスの様子がどんなものだったかとか、そこまでの列車の旅とかが書かれていたり、10月号では実際に起こった事件についての取材があったり、ドキュメンタリックな要素も興味深い。

12月号の「問題は現在いかなる点に存するか。」ではドストエフスキーが『日記』を書く理由が言い尽くされている。

反知性主義の風潮?

何年か前にある作家が、ある種の事柄について自分には理解できないと告白するのは、以前には恥であると考えられていた、なぜならばそれは、告白する人間の頭のにぶさ、その知性や心情の発達程度の貧しさ、知的能力の薄弱さを端的に証明するものだからであると言ったのは、正しい指摘である。ところがいまでは、それとは反対に、「これはわたしには分からない」という言葉がきわめてしばしば、ほとんどさも誇らしげに、すくなくとも、もったいぶった様子で口にされている。これを口にした当人はこの一句によって聴き手の目から見ればたちまち台座の上に祭り上げられた形になるのであるが、さらに滑稽なのは、このようにして手に入れた台座の安っぽさをすこしも恥ずかしいとは思わずに、当の本人もすっかりそれを信じ込んでいい気になっていることである。当今では「ぼくにはラファエルはさっぱり分からんよ」とか「ぼくはわざわざシェイクスピアの全作品を読んでみたんだが、正直なところ、特殊なものなんかそれこそなにひとつ見いだせなかったね」といったような言葉――こうした言葉が今日では深遠な知性のしるしとしてばかりでなく、むしろなにか勇気のある言葉、精神的大偉業に近いものとして受け取られかねないありさまである。

p.430-431

このような極端な一面性と閉鎖性、孤立化と不寛容は主として現代、つまりこの最近の二十年間にはじめて現れたものなのである。それにつれてきわめて多くの人たちのあいだに恥知らずな勇気のようなものがみられるようになってきた。言い換えれば取るに足りない知識の持ち主が、自分たちより十倍もいろいろなことを知り理解している人たちに、臆面もなく面と向かって嘲笑をあびせるようになったのである。

p.432

最近もよくこんなことがいわれてるけど、これが書かれたのは1876年、150年前である。こういう風潮は、SNSによってあらゆる人がフラット化したせいで起こると説明されることがあるけど、現在に特有なものではなく、少なくとも150年前から始まっていたということだろうか。それとも文明の始まりからずっとこの調子だったのかも?

妊婦が起こした事件についての犯罪ドキュメンタリー

ドストエフスキーは妊婦が継子を窓から投げ落としたが子どもは奇跡的に無傷だったという事件について興味を持って取材している。彼女は犯行時にとても冷静で、投げ落とされた子どもを一瞥してそのまま警察に出頭し、すべて自分がやったことだと犯行を認めている。裁判で有罪判決を言い渡されたがドストエフスキーは、そんな奇妙な行動をしたのは妊娠中の一時的な狂気が原因で責任能力はなかったのではないかと擁護している。未決囚拘置所まで出向いてその女性と面会する様子も書かれていて、のちの犯罪ドキュメンタリーみたいで興味深い。ドストエフスキーの影響力もあったのか、彼女はのちに無罪放免になり、翌年以降の『作家の日記』でも、その後の裁判や夫とも投げ落とした継子とも仲睦まじく暮らしている後日談も書かれている。

自殺について。『日記』を書く理由

科学的論理(「科学の最後の言葉」)では自殺を止められない。キリスト教の――しかし西欧のカトリックは堕落しているので―――つまりはロシア正教の「人間の霊魂は不死である」という信仰だけが自殺を思いとどまらせることができる。

また、この信仰抜きで人類愛を説く人も結局は失敗することになる。なぜなら人間の能力には限界があり人類全体を救うことなど不可能なので最終的には人類を憎むようになる可能性さえあるから。

人間の生きる意味、人類が幸福に存在するためにはこの信仰――ロシア正教にだけ保存されている信仰が必要なのだ。

この問題(トルコとの戦争やコンスタンティノープルの占領など)全体の最も重要な本質は、民衆の理解するところにしたがえば、疑いもなくそっくりそのまま、東方のキリスト教、つまり正教の運命の中にのみあるからである。

p.476

本年の国民的な運動が表面に現れたのは、実にそのためであり、ただそれだけの理由によるものなのであった。正教のキリスト教の現在の運命と将来の運命の中にこそ、――まさにその中にこそロシヤの民衆のすべての理想が含まれ、その中にこそキリストへの奉仕とキリストのためにめざましい働きがしたいという渇望がこめられているのである。

p477

問題は、ドストエフスキーのいう「正教の理想」がナショナリズムや国粋主義と区別がつかないことだ。致死率100%の伝染病が西欧から広まっていて、ロシア正教だけが人類に残された唯一の特効薬なのだから、それを破壊しようとするものは絶対悪となる。ロシアとロシア正教がなければ人類の未来はないのだから、ロシアの国益=人類の利益になり、国内の少数派を弾圧することも異教徒を殺すことも、東欧を併呑することもコンスタンティノープルを占領することも肯定されてしまう。

マリア像を抱いて飛び降り自殺したという女性の事件に触発されて「柔和な女」を書いたように、露土戦争につながっていく国民的な運動が起こったことが、ドストエフスキーのなかでこういうった思想を醸成し、『カラマーゾフの兄弟』を書かせたのだろうか?

「柔和な女 ――幻想的な物語――」について

「柔和な女 ――幻想的な物語――」は主人公が自殺した妻について語る中編小説。「幻想的な物語」とあるのは、ドストエフスキーの前書きによると、手記ではないのに主人公が誰かに語りかけるような形式(映画でいえば登場人物が画面のこちら側に語りかけるような)を指してるらしい。

主人公の男は質屋の主人で、元は軍隊にいたけど誰からも好かれず、決闘を断ったことがきっかけで除隊になったあと、自暴自棄になりホームレス生活をしていたが思わぬ幸運で遺産を手にし質屋の主人になった。孤独で、社会への復讐として、3万ルーブルを貯めて隠遁生活することを夢見ている。

ある日、質入れしに来た16歳の少女を見初めて、結婚を申し込む。身寄りのない彼女は二人の叔母の家でこきつかわれる極貧生活を送っていて、元妻を二人も殴り殺している隣の店の商人と結婚させられそうになっていた。主人公の男は彼女を助けたつもりになっているが、自分でも半ば意識しているように、彼女の苦境につけこんで結婚を承諾させたのだ。

男は彼女を支配し教育することしか考えない。教育の結果、彼女が将来自分を完全に尊敬するようになったら、そのときはじめて愛情を示そうと夢想している。夫婦の間に会話はほとんどない。気位が高く頭もいい妻はそんな結婚生活に反発するようになり、知り合った将校と逢引を計画する。計画を知った男は、拳銃を持ち逢引場所の隣の部屋に隠れて聞き耳をたてる。しかし、彼女は誘惑する将校のことを嘲笑しはねつける。彼女はあくまでも高潔で、本気で不倫するつもりはなかった。喜んだ男は姿を現して彼女を連れ帰る。

未遂とはいえ不倫の現場を押さえられた妻は銃殺されることも覚悟していたが、男は罰しもせずしかし許しもしなかった。ただベッドをもう一台買ってきて別々に寝るようにしただけだった。その夜、男が夜中に目を覚ますと、妻の握った拳銃の銃口が自分のこめかみに向けられているのに気づく。しかし彼女は引き金をひくことはできなかった。そんな事件があっても男は態度を変えない。いよいよ優位な立場になり妻を支配することができることをよろこんでいる。

そんなある日、男は妻が精神的に衰弱していることに気づき、強烈な後悔におそわれる。彼女の足元にひれ伏し彼女の足や、足が踏んでいた床に口づけし、懺悔する。いままでのことを反省し、自分がほんとうはどういう人間か、どういうことを考えて結婚生活を送ってきたのか、包み隠さず告白し、質屋も売り払い保養地で暮らそうと計画するが、すべては手遅れだった。男がちょっと出かけたあいだに、妻は聖母像を抱いて飛び降り自殺してしまう。

『作家の日記6』の付録で指摘されているように、妻は貧しいけれど純粋で聖なる教えを胸に抱く敬虔な大衆を象徴し、質屋の主人は大衆から切り離されている知識人たちを象徴しているのは間違いないと思う。ドストエフスキーは大衆と知識人が乖離していることを嘆き、大衆と知識人との幸福な結婚がぜひとも必要だと主張していた。しかしそもそも、なぜ大衆こそが神聖であると思うようになったのだろうか。ドストエフスキー自身、大衆は教養もなくヨーロッパのような文化もないと認めている。一方で自分は上流階級の知識人であるとも認めている。ヨーロッパに比べてあまりにも何も持たないロシア大衆が哀れすぎると思ったんだろうか? 主人公の男が床にはいつくばって懺悔する様子を読むと、ドストエフスキー自身に大衆への罪悪感があったんじゃないかと考えてしまう。

ドストエフスキーの描く登場人物はみんな極端で強烈で、微温的で常識人なキャラクターはほとんどいない。議論の相手やただその場に居合わせた人に対しても激昂するようなドストエフスキーの頭の中に渦巻いているエネルギーが、登場人物たちに流れこんでいるからなのだろう。ドストエフスキーの書くものを読んでると、ページからぴりぴりとした静電気のようなエネルギーが伝わってくるようで、癖になる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました